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辰野金吾。東京駅をつくった男は、ラスト・サムライのひとり その1
2012年01月19日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
さて、
この「雑学いろいろコラム」では、
前回まで三週にわたって、
復元工事の進む東京駅・丸の内駅舎のお話を続けてきました。
今週も続けてみたいと思います。
ただし、
今日は、現在のお話ではなく、古い過去の物語。
東京の象徴のひとつ、
この巨大な赤レンガのモニュメントをこしらえた、
「辰野金吾」
と、いう人のお話です。
生まれは九州。
唐津藩。
辰野は、下級武士の次男として、
この世に生まれました。
時は風雲。
ペリー来航による黒船騒ぎと、
それに続く激動の時代が幕を開けています。
十代半ばで明治維新を迎え、
辰野は、
親・先祖から引き継ぐはずだったその特別な身分を
失いました。
いわゆるラスト・サムライのひとりです。
やがて明治5年、
辰野は東京に出て、立身の道を探します。
翌年、工部省工学寮
(のちの工部大学校、帝国大学工科大学、
現在の東大工学部)に入校。
明治8年、
志望を造家学科、すなわち建築の道に定めました。
さらに、明治10年、
辰野はイギリスからやって来た若き建築家、
ジョサイア・コンドルと出会います。
彼から深く西洋建築を学びます。
明治12年、
工部大学校を主席で卒業。
官費海外留学を終えると、
さっそく母校の教授に就任。
以降、
後進の育成のため、昼夜邁進の日々を送りました。
そんな彼に、大きな仕事が任されることとなりました。
「日本銀行本店」の設計です。
近代国家に必要不可欠、
かつ、これを象徴する建物として、
国の中央銀行は、その最大のもののひとつです。
辰野はこの仕事をひきうけるにあたって、
まずはヨーロッパ各国およびアメリカを歴訪、
参考となる建物を調べつつ、研究をかさねました。
そしていよいよ工事を開始。
明治29年、ついにこれを完成させました。
ちなみにこの建物は、
多くの皆さんがご存知のとおり、
いまも日銀本店の一部(旧館本館)として、
東京・日本橋に残っています。
さて、
この日銀本店の完成によって、
辰野の夢はさらに大きく膨らみました。
彼は、
「日銀、東京駅、国会議事堂の三つをつくりあげること」
これを建築家としての「本懐」と定めていたのです。
そして明治39年、
二つ目の夢である中央停車場、
すなわち「東京駅」の設計を辰野は開始します。
またこの時期、
辰野は、官を辞して事務所を開設。
自営の建築家となって大活躍。
日本各地に次々とその作品を完成させていました。
旧日本生命九州支店(福岡市)
旧日本銀行京都支店(京都市)
旧盛岡銀行本館(盛岡市)
等々、いまもそのうちのいくつかが、
街の記念碑として健在です。
しかも、
建物ばかりではありません。
彼に続く工部大学校~帝国大学工科大学卒の
一流建築家達といえば、
その多くもまた辰野の作品、つまりは教え子です。
皆、辰野に頭が上がりません。
彼は、
そんな日本建築界の王様のような立場に登り詰めながら、
大正3年、
いよいよ東京駅を竣工させました。
ところが・・・
この出来上がった東京駅を見て、
次々と非難の声が上がり始めたのです。
辰野金吾、
苦闘の晩年の始まりでした。
お話は来週に続きます。
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