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辰野金吾。東京駅をつくった男は、ラスト・サムライのひとり その2
2012年01月26日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
お話は前回からの続きです。
「日銀、東京駅、国会議事堂の三つをつくりあげること」
これを建築家としての本懐と定めていた辰野金吾。
大正3年、
日銀に続いて、
彼はいよいよ東京駅を竣工させました。
と、同時に、
この建築界のキングに、落日の影が差し始めます。
歯に衣着せぬ非難が、
世間から聞かれ始めるのです。
「何て不便な駅だ!」
今でもこの名残は感じられます。
東京駅丸の内駅舎の地上における「中央口」といえば、
目立たぬとても小さなものが、ポツリ・・・と
おちょぼ口を開けています。
ですが、
この状況、まだ幾分かマシになったもの。
竣工当時、
一般出入口は、
南北、それぞれが建物の両端にだけ、設けられました。
あれほど長大に外の広場に面している建物なのに、
端っこだけにしか、出入り口が無いのです。
しかも当時は、二つの出入り口が、
なんと、
「入口専用」と「出口専用」とにわかれていました。
なので、
うっかりこれらを間違うと大変!
延々、約300メートル、
駅の前か駅の中を歩かされるはめとなりました。
「なぜ丸の内側に駅舎を置いたんだ!」
ここ最近、ショップなどが増え、
めざましく変貌している丸の内の街並みですが、
しばらく前までの様子をご存知の皆さんも
多分、大勢いらっしゃるはずです。
過去は大きく違っていました。
オフィスばかりの、
失礼ながら味気のない風景でした。
繁華な界隈といえば、
丸の内とは反対側の八重洲方面こそが、
今も昔も、そうでした。
最新鋭の立派な駅舎を
わざわざ寂しい街に向けて置いた意味を
人々は不満を込めて問うたのです。
しかし、
実は、これらの計画は、
辰野が立て、線引きしたものではありませんでした。
設計が辰野に依頼される以前から、
色々な経緯と理由があって、
決められていたことだったのです。
ところが、辰野は、
その名前がすでに大きくなりすぎていただけに
ある意味、不幸でした。
「使い勝手の悪い巨大な明治の遺物、
こしらえたのは誰だ?」
と、なったとき、
象徴としてその名が挙がるような立場に、
彼は立たされることとなってしまいました。
しかし、
それ以上に痛烈だったのは、
同じ建築畑に生きる玄人筋からのするどい批判でした。
怖れを知らない若手が、
そろそろこの世界にも育ってきていたのです。
彼らは、
手探り、見よう見まねで、
なんとか西洋建築の一端をはぎ取って身につけた
辰野達の世代とは違い、
その知識は広く、
建築様式への理解も格段に深めていました。
そのため、
東京駅を一瞥して、「醜悪だ」と、一蹴。
「皆、辰野さんのこしらえるものを本物の西洋建築だと
思っているのか?
あのセンスでは世界の笑いものだぞ」
と、まるで言わんばかりに、
同じ丸の内に、東京駅と同じ様式の本物(?)を
建ててしまった建築家までが登場しました。
彼の名は「松井貴太郎」。
辰野より30歳近くも年下の新進気鋭。
この建物は近年建て替えられましたが、
その外壁などが、今も、
新たな高層ビルの一部を構成するかたちで、
残されています。
東京駅にほど近いお堀端にある
「東京銀行協会ビルヂング」がそれです。
もしご存じなければ、
ぜひ一度、
実物をご覧になってみてください。
一見して、
「東京駅と似た雰囲気。しかし、とても軽快でスマート」
と、多くの皆さんが感じられることでしょう。
もっとも私は、
辰野の東京駅の重厚な外観も、
これはこれで、魅力的に感じています。
さて、
そうこうしているうち、
いよいよ、
辰野生涯の目標のうち、残された最後のひとつ、
「国会議事堂」
の建設が、具体化してきました。
もちろんのこと、
「これも必ず俺の手で!」
と、辰野は執念を燃やします。
しかし、
そんな彼の前に厚く立ちはだかったのが、
大学教育、海外留学、日銀の設計・・・と、
かつての辰野金吾に出世のステージを与え、
彼を大きく育ててくれた、
「官」の存在でした。
お話は来週に続きます。
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