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辰野金吾。東京駅をつくった男は、ラスト・サムライのひとり その3
2012年02月02日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
お話は前回からの続きです。
「日銀、東京駅、国会議事堂の三つをつくりあげること」
辰野金吾はこの生涯の目標のうち、
すでに二つをその手にし終えました。
次はいよいよ、国会議事堂です。
しかし、
こちらはなかなかスムースには進みません。
官に育てられたあと、
民に下って(?)その星として輝いた辰野金吾、
彼は、明治の日本が成長してきたかたちを
そのまま一身に体現したような男でした。
しかし、一方、
彼がいわば野にあって大活躍している間、
官の方は官の方で、
地道に力をたくわえ続けていたのです。
国会議事堂は、
国家の象徴として、
出来上がればまさに近代日本の記念碑となるべき
重要な建物でした。
誰がこれをつくり上げるべきか?
どんな建物にするべきか・・・?
これに対し、
「国会議事堂は我々官の手でつくらせてもらう」
そう主張するのは、
大蔵省をその拠点とする官僚技術者達でした。
一方、
「いや、広く設計を募るべし。公開コンペにせよ!」
辰野とその教え子達は、そうはさせじとばかりに、
マスコミをつかい、
世論に訴え、
はげしく官僚側と主導権を争いました。
しかし・・・
長期にわたる議論空しく、
辰野達は負けてしまいます。
国会議事堂の設計は、大蔵省側の強力なリーダーだった
妻木頼黄(よりなか)らの手によって、
進められることとなったのでした。
ところがその後、
意外なことが起こります。
財政上の支障が出て計画の進行が遅々とする中、
なんと、妻木が没してしまうのです。
こうなると形成は一気に逆転。
建築界のキング・辰野の熱情を抑えられる者は、
もはや官民いずれにも見当たりません。
国会議事堂は、
辰野金吾主導によるコンペによって、
そのデザインが募られることとなったのでした。
ところで、なぜ辰野の主張は、
「オレにつくらせろ!」
ではなく、
「コンペ」だったのでしょうか。
無理もありません。
辰野はもはや建築界の重鎮、偉大な長老です。
「オレに、オレに・・・!」と、
駆け出しの若者のようなことを言うわけには
いきませんでした。
さらには、
もしも彼がそんなことを言い始めたら、
味方も皆シラけてしまい、ついてはこなかった筈・・・。
これらが、
理由として大きいでしょう。
そこで、
辰野は当初、こう考えていたようです。
「コンペとなれば、オレが審査員に選ばれることは必然。
同時に、もっとも発言力のある審査員は
オレということに。
そこで『審査員も作品を応募できる』ということに
してしまえば・・・しめしめ・・・」
さらにのちには、
こう軌道修正したといわれています。
「オレが応募できないのなら、
応募案の中から選ばれたものに、
オレが思い切り手を加えることが出来る仕組みに
してやろう。そうなれば事実上、
国会議事堂はオレの作品に・・・!」
むしろ惚れ惚れするほどの
ラスト・サムライのおそるべき執念といっていいでしょう。
しかし、
天は、このサムライが、
描いたすべての夢をつかみとることを
許しませんでした。
ほどなく、
辰野の思惑どおりに実施された国会議事堂設計コンペ。
そこで選ばれた作品に、
いよいよ手を加えようとしたその時、
彼は力尽きたのです。
病に侵されたその肉体は与えられた寿命を終え、
辰野金吾はついに、
永遠の旅路についたのでした。
享年六十四。
その後、国会議事堂の設計は、
コンペ案を下地にはしながらも、
実質上、
あの妻木頼黄のあとを継いだ、
官僚技術者らによってすすめられることとなりました。
その中心となった人物、
矢橋賢吉は、
かつて帝国大学で辰野の教えを受けた、
いわば弟子の一人でした。
・・・さて、以上で、
三週にわたって続いた辰野金吾のお話は終わりとします。
来週は「番外編」として、
もうひとり、
ある建築家とその作品についてのお話しをいたしましょう。
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