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日蓮法難ゆかりのお寺・妙長寺で、泉鏡花の記した明治の鎌倉を想う
2015年03月20日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
金曜日は「鎌倉大家日記」です。
あまり観光客の姿を見ない、
鎌倉の隠れた古刹やお社(やしろ)を
これまでにもたびたび紹介しているこの「鎌倉大家日記」。
今回は、
前回ご紹介した向福寺からほど近く、
(前回の記事は→こちら)
日蓮宗の妙長寺を訪れてみます。
行き方は、向福寺からであれば、
ごく簡単。
参道を出たら、
横たわるバス通りを左に、100メートルちょっと。
道路の右手、やや奥に、
屋根の反りの具合も涼やかな、
小振りの山門が現れます。
妙長寺を知る人は、あまり多くはありません。
ですが、
実はここは、鎌倉を代表する歴史上の人物のひとりに
ゆかりがあるとされるお寺。
その人物とは、日蓮上人。
彼の法難を偲んで、
弟子のひとりが建てたとされる仏堂が、
その始まりであるといわれています。
ちなみに「法難」とは、
宗教者が、権力者などから迫害や弾圧をうけること。
ご存知のとおり、
日蓮は鎌倉幕府の政治や、他の仏教諸派に対し、
激しく意見を繰り返した人でした。
そのため、幾度にもわたって、
襲撃されたり、捕まったり、
命を落としかけるような目に遭わされています。
そんな日蓮の被った法難のひとつが、
いわゆる「伊豆法難」です。
このとき、彼は流罪に処せられ、
舟で、鎌倉から伊豆の伊東付近にまで送られることと
なったのですが、
このとき、
現地に住む弥三郎という漁師が、
海上の岩の上に置き去りにされた日蓮を救い、
これを匿ったとされています。
その後、
この弥三郎の子が出家し(あるいは本人とも)、
日蓮門下となりました。
日実と名乗ったとのこと。
日実は後日、鎌倉にやってきて、
日蓮が伊豆に送られた際、船出した場所を探しました。
ほどなく、
その地が、いまの材木座海岸あたりの「沼浦」と呼ばれた
海辺であったことを知り、
そこに一堂を建立したということです。
しかしながら、そののち、
このお堂は津波に襲われてしまいました。
そのため、やや内陸へと移転。
それがお寺となって、
いまの妙長寺に続いているとされています。
ちなみに、以上の話を記念して、
妙長寺の境内には、
大きな相輪が建てられています。
(相輪とは、宝珠を頂点に九つの輪などを配した塔のこと。
五重塔などの頂上によく立てられます)
さらには、舟の模型も置かれています。
法難の際、
日蓮が乗せられた舟を想像してつくられた、
ささやかなモニュメントです。
妙長寺は、
日蓮のほか、
もうひとりの人物の名前によっても、
一部の人達にはよく知られています。
その人物とは、泉鏡花です。
明治後期から大正、昭和の初期にかけて活躍した、
いまも熱烈なファンの多い作家です。
鏡花は、尾崎紅葉に憧れ、
彼に弟子入りしようと、
明治23年、
故郷の金沢をあとに上京しました。
しかし、いざとなると勇気が出ず、
その門を叩くことに躊躇し、しばらく悶々。
ついに明治24年の10月、
晴れて紅葉の書生となりますが、
この年の夏、
鏡花は、しばらく妙長寺に滞在していたのです。
のちに彼は、
そのときの経験を題材に、
小説「みだれ橋」(のちに改題して「星あかり」)を
発表しています。
作品の中には、
まだ闇の深い、
静けさにつつまれた明治の鎌倉の夜の情景が、
鏡花ならではの文体で、幽玄に描かれています。
短い一作ですので、
よかったら、ご覧になってみてください。
妙長寺境内・「日蓮伊豆法難」の舟の模型
(写真:宮 栄多郎)
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鎌倉大家日記(金曜日の記事)│コメント(0)
知られざる開祖、一向上人。丹精込められた小さな庭の寺・向福寺
2015年03月13日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
金曜日は「鎌倉大家日記」です。
あまり観光客の姿を見ない、
鎌倉の隠れた古刹やお社(やしろ)を
これまでにもたびたび紹介しているこの「鎌倉大家日記」。
今回は、前回ご紹介した来迎寺からほど近く、
(前回の記事は→こちら)
時宗の向福寺を訪問します。
早速出発しましょう。
まずは来迎寺の門前を背に、左へ進みます。
すると間もなく、
前々回ご紹介の「五所神社」の鳥居が左手に現れます。
(五所神社の記事は→こちら)
鳥居が現れたら、
その斜め向かいに口を開いている通りへ、
右折して進入。
すると、ほどなくバス通りに出ます。
この通りは、
以前ご紹介した「九品寺」門前に通じる通りです。
(九品寺の記事は→こちら)
ここで道を渡っておきましょう。
渡り終えたら、右へほんの25メートルほど。
二軒のマンションに挟まれた路地の入口から、
奥を覗いてみてください。
突き当たりに見えている赤いトタン屋根の建物が、
目指す向福寺です。
向福寺は、とても小さなお寺です。
ほとんど民家程度といっていい敷地に、
本堂と庫裏、
庭と墓地とがぎゅうぎゅう詰めです。
それでも、
そんなぎゅうぎゅう詰めにされた中のせまい庭が、
なかなかいい雰囲気を醸し出してくれています。
いかにも鎌倉のお寺らしく、
きっちりと目地の整ったような美しさこそ無いまでも、
人の手のぬくもりをもってつねに丹精込められている様子が、
素朴な景色の隅々から、
しっかりと、伝わってくるようです。
創建は伝えられるところによると、
弘安5年(1282)のこと。
開山とされているのは、
一向俊聖(いっこうしゅんしょう)です。
一向は、有名な人ではありません。
ですが、実は、
その生きていた当時にあっては、かなりの活躍を見せた人。
のちの事の運びようによっては、
いわゆる鎌倉新仏教の開祖のひとりとして、
数えられていたかもしれない人物です。
一向上人、
一説には、暦仁2年(1239)の生まれ。
鎌倉にある浄土宗大本山・光明寺の開山などとして
名の知られる、
然阿良忠(ねんありょうちゅう)のもとへ参じ、
その教えを学びました。
しかしながら、文永10年(1273)、
一向は、師とは別の道を歩み始めます。
安住の場としてのお寺や、
地域の支持者や信者による庇護を捨て、
飢えや命の危険も覚悟で、
見知らぬ土地をさすらいながら教えを説き、
修行をかさねる、
「遊行」の旅に出るのです。
その遊行の途上、一向が始めたのが、
念仏などを唱えながら踊る「踊り念仏」でした。
踊り念仏といえば、
私達は、おおむね一遍上人ばかりを思い起こしがちです。
しかし実は、
人々にこれを勧めながら遊行したのは、
一遍だけではありません。
一向も同じことをしていました。
さらに、皆が皆、
踊りまで勧めていたかどうかはともかく、
念仏を広めながら旅をするにあたっては、
似たような人は、当時、
ほかにもたくさんいたらしいのです。
その中で特に多くに慕われ、有名になったのが一遍。
さらには、一向だったようです。
次いで、のちには、
一遍の弟子達がそうであったように、
一向に師事した人達も、
ひとつの教派を生み出しました。
彼らは教団を成長させ、
やがては一宗が立てられるかたちとなります。
お寺もあちらこちらに建てられました。
この宗派のことを人々は、
「一向宗(衆)」と呼んだり、
「時衆」と、呼んだりしたようです。
このうち「一向宗」は、
浄土真宗を指して世間がそう言ったものとは
もちろん違う、別のものです。
よって出どころは、
当然ですが、一向俊聖の名前。
そこに、
「一向専修」の語(ひたすら修行する)が
重ね合わせられたものでしょう。
一方、「時衆」というのは、
一向だけでなく、
同様に踊り念仏を行なった一遍の信者達を指して言うものと
共通する呼び名です。
いわば、
一向の宗派と一遍の宗派を同一視したかたちですが、
そうした見方は、史料によると、
かなり早い時期から始まっていた様子。
一向と一遍は、
似た時期に相次いで亡くなっていますが、
(記録・伝承が正しければ2年違いです)
その直後、
あるいはひょっとすると彼らの生前から、
その信者らは、
一般の目からは、「同じ集団である」と、
見られていたのかもしれません。
その後、江戸時代になると、
両者への同一視は、さらに決定的となりました。
幕府の政策によって、
一向の宗派は、一遍の宗派と統合させられてしまうのです。
否、統合ではなく、文字通りの吸収合併です。
一向宗の寺々は、
一遍直系の「時宗」の本山、
清浄光寺(しょうじょうこうじ)の管轄下に
置かれることとなるのです。
ちなみに清浄光寺は、
いまも鎌倉のお隣、藤沢市に健在です。
ご存知の方も多いでしょう。通称を「遊行寺」といいます。
一方、この幕府の措置に対し、
旧一向宗の人々は、
「私達と遊行寺さんのところとでは開祖が違うのに」
と、大いに不満を感じたようです。
彼らは独立を訴え始めます。
しかし、申し立てはなかなか認められず、
運動は明治に入ってからも続きます。
さらには大正、昭和に至っても・・・。
なぜかといえば、
当初の話し相手である江戸幕府こそ、
その間、
無くなってはいたものの、
旧一向宗のお寺が独立するとなれば、
多数の末寺を手放すことになる、本家・時宗側との話し合いが
その後も必要だったとのこと。
交渉は難航したようで、やがて昭和も戦中に入ってから、
やっと、
彼らの望みは叶えられることとなりました。
ですが、そのかたちは
本来求められていた「独立」というものではなく、
多分、経済上の問題など、
色々と事情も生じたのでしょう、
旧一向宗の寺々のうち、
時宗から出ることを希望するお寺は、
以降、
浄土宗に帰属することに。
なぜ、ここで「帰属」なのかといえば・・・
初めの方の記述を思い出してください。
然阿良忠のいた浄土宗こそが、
彼らの宗祖・一向が巣立った、出身母体であったからに
ほかなりません。
よって、
現在、一向を開山としながらも、
本山を遊行寺とする時宗の一寺院であることを
名乗る向福寺は、
このとき浄土宗には帰らず、時宗に残ったお寺のひとつ・・・
と、いうことになるようです。
向福寺のつつましげな境内
(写真:宮 栄多郎)
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鎌倉大家日記(金曜日の記事)│コメント(0)
あなたは106歳・・・!相模の老雄・三浦義明を弔うお寺「来迎寺」
2015年03月06日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
金曜日は「鎌倉大家日記」です。
あまり観光客の姿を見ない、
鎌倉の隠れた古刹やお社(やしろ)を
これまでにもたびたび紹介しているこの「鎌倉大家日記」。
今回は、前回ご紹介した五所神社からほど近く、
(前回の記事は→こちら)
時宗の来迎寺を訪問します。
ところで、
鎌倉にはもう一軒、来迎寺という、
同じ名前のお寺があります。(以前にご紹介→こちら)
しかも、宗派も同じ時宗です。
なので、間違われやすいのですが、
そちらの来迎寺があるのは西御門(にしみかど)と
呼ばれる辺り。
位置は鶴岡八幡宮の北方山側、その東寄り。
一方、いまから向かう来迎寺は、
海に近いエリア、材木座にある来迎寺です。
場所は、前回訪問した五所神社の鳥居を背にして、
右へ、70メートルくらい。
あっという間に、参道の入口に到着です。
ただし、この来迎寺、
鎌倉駅方面からまっすぐ向かうとなると、
やや面倒。
とても迷いやすい位置にあります。
ですのでその場合は、ぜひ下調べを。
さらに地図のご用意も。
さて、この材木座の来迎寺、
観光に訪れる人こそそれほど多くないものの、
歴史好きには、
かなりよく知られているお寺です。
理由は、三浦大介(おおすけ)義明の存在。
三浦義明は、
いわゆる源平合戦時代のヒーローのひとり。
ここが、彼の供養塔の立つ、
彼ゆかりの寺とされているからです。
治承4年(1180)8月のこと。
平家打倒を旗印に、源頼朝が挙兵。
三浦義明は、
かねてから支援していた頼朝に味方するため、
一族郎党をひきいて出陣します。
このとき、数え年89歳。
ところが、折悪しく、
相模地方を猛烈な雨が襲います。
川も溢れ、
義明らは戦場にたどり着くことができません。
そこに、
「頼朝敗戦」との報せが。
三浦勢は本拠地である三浦半島の衣笠城(現横須賀市内)へ、
一旦、引き返そうとします。
ところがその途中、当時平家方として兵を挙げていた
畠山重忠(のちに源氏方となる)の軍勢と遭遇、
合戦が始まってしまいます。
三浦勢は大いに善戦。
しかしながら、
この時点ではまだ敗軍の一派であった彼らに比べ、
勝ち軍(いくさ)に乗っている畠山方は、
周囲の援軍を待つことができます。
すなわち形成としては圧倒的に畠山方が有利。
そのため義明らは、
衣笠城へ追い詰められてしまいます。
そこで義明は、いよいよ覚悟を決めました。
彼は決断します。
「年老いた自分だけがここに残る」
と、宣言、
他の者は頼朝を探し出して味方するよう、
人々に命じ、
まだ十分な戦力を保っていた軍勢を
夜陰に乗じて、
海上に脱出させます。
これが奇跡を生むのです。
脱出した三浦氏の軍勢は、
ほどなく、
敗走してきた頼朝の舟と邂逅、
頼朝は三浦一族に守られつつ、房総半島に渡り、
三浦の軍勢による後ろ盾をいわば「原資」にして、
周囲の勢力を糾合します。
ここからいよいよ、
頼朝・源氏の大反攻が始まるのです。
一方、三浦義明は、
わずかな郎党とともに重忠勢と戦い、
当然のごとく討ち取られてしまいます。
わずか数年後に現実となる源氏の勝利、
平家の滅亡、
さらには鎌倉幕府の誕生を見ることもなく、
当時としては大変に長い、その一生を終えたのでした。
(なお、以上の物語については、細かい箇所での
異説もたくさんあります。ご了承ください)
さて、そんな義明に対し、
頼朝は、生涯にわたって恩を忘れなかったといいます。
義明の十七年忌がやってくると、
その法要の席で、頼朝は、
「あなたはいまも私とともに生きています」
と、述べたと伝えられています。
すなわち、
享年89に17年を足して、106(百六つ)。
この逸話は、のちのちまで世に伝わり、
江戸時代、
「鶴は千年 亀万年 三浦大介百六つ」・・・
そんな歌になって、
流行ったことが知られています。
そこで、
来迎寺とこの三浦義明には
どんなゆかりがあるのかというと・・・
建久5年(1194)、
義明を弔うため、
頼朝が、幕府の膝もとである鎌倉に建てた
「能蔵寺」というお寺こそが、
来迎寺の前身であるとされているのです。
能蔵寺は真言宗のお寺だったようですが、
のち、時宗のお寺となりました。
史料によると、
江戸時代終盤あたりまでの、いつの時代にか、
ある住職が、自らの寺の由緒を偲んで、
いまに残る三浦義明の供養塔を
境内に建立したようです。
供養塔は、
訪問すればすぐに見つかります。
参道を進み、
本堂の少し手前まで来たところの右手にあります。
日差しあふれる明るい墓地の中に、
立派な五輪塔の立つのが見えるかと思います。
塔は二つあります。
右が、三浦義明の供養塔。
そして左は、
上記一連の合戦で討ち死にした、
彼の孫、多々良三郎重春のもの。
あるいは、義明の妻のものである、
との説もあるそうです。
境内にはこんな場所も。来迎寺に伝わる数多くの石塔が、
三浦義明の家来のお墓として、祀られています。本堂裏手。
(写真:宮 栄多郎)
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板碑、祟りの石、疱瘡お婆さん?人々の信仰が賑やかに集まる「五所神社」
2015年02月27日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
金曜日は「鎌倉大家日記」です。
あまり観光客の姿を見ない、
鎌倉の隠れた古刹やお社(やしろ)を
これまでにもたびたび紹介しているこの「鎌倉大家日記」。
今回は、
前回ご紹介した実相寺の門前からほど近く、
(前回の記事は→こちら)
同じ道沿いに参道の入口をひらく、
小さなお社、
「五所神社」を訪問してみます。
なお、両者の距離は(門前から参道入口まで)、
およそ60~70メートルといったところ。
すぐご近所です。
「村社五所神社」と刻まれた石柱の左奥、
鳥居の下から、
なだらかな石畳が社殿の方へと伸びています。
この五所神社、由緒書きをひもとくと、
こうあります。
「この辺りは、古くは乱橋村と材木座村とに分かれていた」
「乱橋村には三つの神社があり、
材木座村には二社が鎮座していた」
「明治41年にそれらが合祀され、五所神社とされた」
すなわち、
五社が集められたため、「五所神社」。
そんな経緯があったうえに、
周囲の人々の神仏への信仰もとても篤かったのでしょう、
境内には、
以前のお社や、すでに無くなった付近のお寺などに
祀られていたと思われる、
色々な信仰の「よすが」となるものが、
ところせましと置かれています。
たとえば、よく目立つのが庚申塔です。
一口に庚申塔といっても、
そのかたちにはさまざまなものがありますが、
この五所神社の場合、
よく見られる「青面金剛」を浮き彫りにしたもの、
猿田彦の名を刻んだもの、
日天・月天、
馬頭観音、帝釈天、如来像・・・と、
およそさまざまな作例が一挙大集合しています。
また、
庚申塔ではないようですが、
いずれかに祀られていた道祖神だったのかもしれない、
とても凛々しい「摩利支天」像も
それらに並んでいて、
何とも賑やか、かつ豪華な風景となっています。
お稲荷さんもあります。
しかも、ちょっと変わったお稲荷さんです。
「石上稲荷」といいます。
御神体は一個の石です。
その姿は特に隠されることもなく、
参拝者のすぐ目の前のほこらの内側に、
のっそりと、横たわっています。
「昔は近くの材木座海岸、豆腐川の河口にあった大石」
なのだそう。
「船や漁師さん、泳ぐ人への悪さや祟りが
多かったため、陸に引き上げられた」
と、いうことです。
どんな悪さや祟りがあったのでしょうか。
実は、鎌倉にはほかにも似た例があって、
海中の石近くの海面で船のとも綱が切れたり、
そばで人が溺れたり、
といったものが、その「罪状」なのですが、
残念ながら、石上稲荷のほこらに添えられた
解説板には、
そういったことは何も書かれてはいません。
この石上稲荷のすぐ横には、立派な板碑が立っています。
弘長2年(1262)の銘が刻まれ、
国の重要美術品にも指定されているこの板碑、
当神社の代名詞のような存在として有名ですが、
このたびはその手前、
地面に直接ごろりと、無造作に転がっている石に
注目してみたいと思います。
そばに看板が立っています。
「疱瘡老婆の石」と書かれています。
これは、
いわゆる「しわぶき婆さん」や「咳の爺婆尊」に類する
信仰の対象だったものでしょう。
鎌倉に見られる例としては、
北鎌倉・光照寺の「おしゃぶき様」が有名です。
これら、しわぶき婆さんやおしゃぶき様が、
風邪避け、
あるいは止まらない咳などを治してくれる
神様であったように、
疱瘡老婆の石は、その名称から、
人々が、疱瘡の治癒や、
その感染予防を願う対象にしたものであろうと
思われます。
疱瘡は、またの名を天然痘といいます。
天然痘は、
世界中の人々の長年の努力により、
いまは根絶された病気、ということになっていますが、
過去は、
その重い症状によって命を奪われるか、
奪われなくとも顔や体に多くの「あばた」を残してしまう、
大変恐ろしい病でした。
鎌倉にゆかりのある有名な人としては、
源頼朝の子、
三代将軍・実朝(さねとも)が、
17歳の時、疱瘡にかかっています。
疱瘡老婆の石には、
この困難な病気に苦しんだ人々や、
この病気から逃れたい、
罹患した子どもや肉親を救いたい、と願った人々の思いが、
いまも重く、深く、
籠っているかのようです。
摩利支天と庚申塔
石上稲荷。写真左奥のほこらの中に御神体が。
神輿庫。人気の初夏の例大祭で担がれるお神輿を
覗き見できます。
境内山側にはひときわ幽玄な雰囲気の場所も。
御嶽信仰にかかわる石碑などが立ち並びます。
(写真:宮 栄多郎)
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鎌倉大家日記(金曜日の記事)│コメント(0)
実相寺の静寂な境内で、鎌倉時代に渦巻いた「怨念」のあとを想う
2015年02月20日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
金曜日は「鎌倉大家日記」です。
あまり観光客の姿を見ない、
鎌倉の隠れた古刹やお社(やしろ)を
これまでにもたびたび紹介しているこの「鎌倉大家日記」。
前回ご紹介した九品寺からほど近く、
(前回の記事は→こちら)
今回は、
閑静な住宅街に佇む、
日蓮宗の「実相寺」を訪れてみます。
早速出発です。
九品寺の山門を背に、門前を横切る道路を
左へ向かいましょう。
200メートルほど北上します。
次いで、
右手に現れる細い路地に入ります。
すると、あとは簡単です。
そのまま路地を80メートルほど進んだ
突き当たり。
そこが、実相寺の門前です。
ここで・・・
「いや待った・・・!同じ門前でも、ここは鳥居の前だ。
『五所神社』に来ちゃった」
と、なってしまった方は、
正しい路地の入口を見逃してしまいました。
一本先の路に進入しています。
慌てず、焦らず、五所神社を背に立ち、
そのまま左へ進んでみてください。
間もなく、左手に、
目的地の実相寺が現れます。
実相寺のはじまりは、
日蓮の弟子・日昭が活動の拠点とした法華堂であると
されています。
法華堂の以前、ここにはある武士の屋敷が建っており、
その武士こそが、
一説には日昭の祖父にあたるともされる、
工藤祐経(くどうすけつね)でした。
もっとも、
「工藤祐経でした」と、ここで書いても、
いまは多くの皆さんが、
「誰ですか、それは」と、首を傾げてしまうことでしょう。
しかし、
工藤祐経といえば、戦前までは誰もがよく知る、
歴史上の人物のひとりでした。
「曾我兄弟の仇討ち」という大事件が、
鎌倉幕府発足後、間もなく起きています。
建久4年(1193)、
前年に征夷大将軍となった源頼朝が、
一大軍事デモンストレーションである「富士の巻狩り」を
挙行したときのこと、
これに参加していた
曾我祐成(すけなり)、曾我時致(ときむね)の若い兄弟が、
宿願である父親の敵(かたき)討ちを果たすのです。
討たれた方が、工藤祐経。
立ち位置としては、
ヒーローが曾我兄弟。祐経は悪役です。
この話は、
時代を下るにしたがって、人々の感動を呼びつつ、
脚色も重なっていきました。
いわば、エンタメ化していき、
江戸時代には「曾我物」として定番中の定番に。
歌舞伎を中心に、
さまざまな芸能作品の素材、題材とされました。
さらに、その勢いは
近代に入ってからも衰えることなく、
曾我兄弟は、
少年や若者の鏡として小学校の唱歌に歌われ、
また、国定教科書にも、
仇討ちの成就とそれに至るまでの彼らの辛苦の物語が、
教材として載せられていたほどです。
そんな国民的ヒーローに対する、
悪役・敵役であった工藤祐経。
この人の屋敷が、
いまの実相寺の立つ場所に、
かつてあったとされているのです。
現在は周りを静かな住宅地にかこまれた、
落ち着いた境内に佇みながら、
祐経のことを思うと、
思わず、
「名前をみんなに忘れられてよかったのでは・・・」
そんな気分にもさせられてしまいます。
なにしろ、
この時期の歴史に詳しい方ならご存知のことでしょう、
仇討ちされるまでに至ったについては、
祐経には祐経の、
人生の「ドラマ」があったのです。
祐経は、幼いうちに父を亡くしています。
そこで後見人となったのが、義理の叔父で従兄弟にもあたる
伊東祐親(すけちか)。
この祐親に、
祐経はあるとき策を弄されて土地を奪われ、
さらには妻(祐親の娘で、どうやらこれも「策」のひとつ)
をも奪われてしまうのです。
激しく恨みを抱いた祐経は、祐親の命をねらいます。
郎党に命じて、ある日、
狩りから帰る途中の祐親を襲わせるのですが、
このとき、
祐親と一緒にいた、彼の息子である河津祐泰(すけやす)に、
矢が命中してしまうのです。
祐泰はこれにより死亡。
この祐泰の残された幼い子どもたちこそが、
曾我兄弟です。
当時、
兄祐成5歳、弟時致3歳。
兄弟は、「いつか父のかたきを・・・」
と、胸に復讐の炎を燃やしながら、
その後間もなく訪れる、
源平動乱のはげしい時代を生き抜いていくのです。
ちなみに、
この騒ぎの始まりをつくったように見える
さきほどの伊東祐親は伊東祐親で、
工藤祐経の土地を奪った行為は、
実は、過去の遺恨によるものでした。
彼は彼で、
かつて祐経の父親との間に生じた、
土地と名誉に絡む深い恨みから、
これを実行しているのです。
まさに、怨念の連鎖。
ちなみに、怨念といえば、
伊東祐親は、
源頼朝の恨みを買っていた人としても有名ですが、
話が飛んでしまうので、
ここでは触れるのを我慢しておこうと思います。
ところで、
見事仇討ち本懐をとげた曾我兄弟。
末路ははかないものでした。
兄弟は、騒ぎをきいて駆けつけた御家人達と
激闘の末、
兄祐成はその場で討たれます。
弟時致は捕らえられてしまいます。
なぜ、そうなったのかというと・・・
二人はどうも、
工藤祐経を討ち果たしたあと、
なんと次には、
将軍頼朝の宿所に向かおうとしていたらしいのです。
理由は謎です。
これについては、過去よりさまざまな陰謀説、
憶測などの絶えることがありません。
その後、捕らえられた時致を
頼朝は赦そうとするのですが、
ここでまたも、次なる深い怨念が首をもたげます。
討たれた祐経の子が、涙で訴え、
時致の身柄の引渡しを求めたのです。
仇討ちした側が、次にはたちまちひとのかたきに。
頼朝はこれを認め、
時致はほどなく、その首を斬られました。
さて、長くなりました。
そうしたわけで、
日蓮の弟子、日昭がもとをひらいたとされるこの実相寺。
以上のような激しくも悲しい物語を想えば、
誰もがこう願うことでしょう。
「日昭は、やはり一説どおり、工藤祐経の孫であってほしい」
と。
すべての怨念の物語の中心にいた祐経の血をひく日昭が、
かつて祐経の寝起きしたその場所に、
仏に祈るための庵を結んだことで、
この一連の話の中、
恨み、恨まれたすべての人々が、
何か安らぎを得ることができたようにも思えます。
実相寺の門前から望む境内
(写真:宮 栄多郎)
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