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先月、北関東を襲った竜巻についてのこと
2012年06月07日元ボクサーのするどいパンチが貫いた!? 上野の国際子ども図書館
2012年02月23日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
安藤忠雄さんといえば、
知らない人がいないといっていいほど、有名な建築家です。
昭和16年(1941年)生まれ。
1970年代の半ば、「住吉の長屋」で
世間に衝撃を与え、
以降、さまざまな作品を発表し続け、
高い評価を獲得。
国内のみならず、
世界各地にプロジェクトをかかえ、足跡も残す、
日本を代表するクリエイターのひとりです。
最近の東京においては、
東京湾のゴミ埋立地を豊かな森に変える、
「海の森」プロジェクトの事業委員長として、
開業間近な東京スカイツリーの監修者として、
その名前が話題にのぼるほか、
昨年は、
東日本大震災復興構想会議のメンバーとして、
テレビの画面などに映るその姿を見かけた方も
多分、多かったのではないでしょうか。
さて、
このとにかく有名な安藤忠雄さんの、
あまり知られていないかもしれない、
変った作品が、
実は、東京の上野にあるのです。
場所は上野公園内。
JR上野駅から向かうと、
東京国立博物館の敷地の向こう、
大ミュージアムの陰に隠れた・・・といった
雰囲気のあたり。
ここに、
「国立国会図書館 国際子ども図書館」
という施設があるのですが、
これこそ、
世間にはあまり大きく知られてはいない、
安藤氏の隠れた名作のひとつ。
そう言ってしまってもいいでしょう。
ただし、
実際に行ってみると、すぐに、あることがわかります。
この建物は、古いのです。
その古さというのも、
尋常ではなく、
実は竣工が1906年(明治39)。
「え!それじゃ安藤さんの生まれる前じゃないか」
と、いうことになってしまいますが、
ここで正しく事情を明かしましょう。
この建物は、
安藤氏のデザインに基づいて
新築されたものではありません。
安藤氏は、
「帝国図書館」として建てられた古いこの建物に、
改造を加えたのです。
その改造たるや、
ルネサンスを基調としたこの優美な建物に対し、
ガラスの箱を貫通させるという大胆なもの。
しかも、
その貫き方を見ると、建物の斜め前方から、
ボクサーの繰り出す、
するどい左フックが入ったかのようなきわどい様相。
これを見て、
かつて80年代にフランス・ルーブル美術館の
中庭に出現した、
有名な「ガラスのピラミッド」を思い出す、
とした人も数多くいましたが、
見る人を驚かせるインパクトという面では、
あるいは、ルーブル以上、かもしれません。
ちなみに安藤氏は、
これも有名ですが、
元プロボクサーという経歴の持ち主です。
旧帝国図書館という、
いわば国家を飾った明治の美に対し、
安易にクリンチ・・・妥協せず、
真っ向、勝負を挑んだ様子です。
結果、
荒々しくもすがすがしい美を
ここに完成させました。
なお、
入館されるとわかります。
この建物の背面に立つもともとの外壁は、
いま、
ガラスのカーテンウォールに優しく囲まれることによって、
ラウンジの内壁として、
新たな魅力を醸し出しています。
正面からの印象とは一変。
とても居心地のよい、
素敵な空間です。
どんな借り手が現われる?新宿の名建築「旧小笠原邸」
2012年02月16日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
いま、あるオーナーさんが、建物の借り手を募集しています。
オーナーさんの名前は「東京都」。
ただし、
建物は都営住宅ではありません。
新宿区河田町に建つ、
東京都選定歴史的建造物「旧小笠原邸」という、
とても美しく、特徴深い建物です。
1927年(昭和2)に建てられた
鉄筋コンクリート造りのこの邸宅、
どんなところが特徴深いかというと、
注目すべきは、その建築様式です。
「スパニッシュ」
と、呼ばれるもので、
ひらたく言えば「スペイン風」。
しかし、近代の建物において、スパニッシュという場合、
長くイスラム勢力の支配下にあったイベリア半島・・・という
歴史的事情を反映した、
イスラム様式が各所に混じったスタイルを
おおむね、指すこととなっています。
昭和の戦前の時代、スパニッシュは、
主に邸宅向けの様式として、
ちょっとした流行にもなりました。
「旧小笠原邸」は、
その生き残りのひとつなのですが、
小さな開口部にスペイン瓦、
パティオ、
イスラム風の装飾に彩られた喫煙室など、
スパニッシュの見本ともいっていい、
かくしゃくとしたその姿です。
この建物の最初のオーナーは、
その呼び名のとおり、小笠原さん。
小笠原長幹(ながよし)という人物です。
明治の生まれですが、お父さんは最後の小倉藩主だった人。
その子として、長幹氏もまた、
歴史ある小笠原家の当主をつとめました。
建物は戦後、GHQの接収を受けます。
その後、
東京都の所有となり、
児童相談所として使われていた時期もあったそうです。
さらに2002年からは、
都が貸し付け、
レストランとして使用されていましたが、
来年3月には契約が満了。
都民への公開、
建物の歴史的、文化的価値を活かせる事業を行うことなどを
条件に、
次なる借主を募集しているのだそうです。
どんな姿に生まれ変わるのか、
楽しみな建物です。
東京都のサイトで、
建物の内外観などが見られます。
↓
http://www.metro.tokyo.jp/INET/BOSHU/2012/01/22m1j100.htm
妻木頼黄が残した、横浜と東京で愛されるランドマーク
2012年02月09日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
先週まで、
この「雑学いろいろコラム」では、
6回にわたって、
目下復元工事の進む
東京駅丸の内駅舎にまつわるお話を続けてきました。
そこで今回は、いわば「番外編」。
妻木頼黄(よりなか)という建築家の作品について、
少しお話しすることにしましょう。
妻木頼黄・・・
前回のお話で、東京駅の設計者である辰野金吾の
ライバルとして登場しました。
大蔵省を拠点に、
官僚技術者達のリーダーとして、
近代日本における記念碑的な建物になるとされていた
国会議事堂の建設計画を主導、
しかし、その道半ばにして命の炎燃え尽き、
夢破れた男です。
この妻木の作品ですが、
実はなかなかの大作、名作が私達の身近に残されています。
で、ありながら、
「あの○○は妻木頼黄(および彼が率いた「チーム」)の
作品なんだよ」
と、本人の名前にからめて紹介されることが、
なぜか彼の場合、とても少ないようです。
そこで、今回は、
横浜と東京にある彼の代表作三つをここで
紹介してみたいと思います。
まずひとつ目。
横浜中心部、有名な「馬車道」に面して建つ
「神奈川県立歴史博物館」です。
明治37年、横浜正金銀行本店として建てられた、
重厚かつ壮麗なバロック建築です。
ライバル辰野金吾も含めた同世代中、
もっとも優れていたともされる妻木のデザイン力が、
如何なく発揮された大作です。
さらに二つ目。
かつてはテレビドラマなどのロケ地に。
今は横浜の代表的な観光商業施設として・・・
全国の人に知られています。
「横浜赤レンガ倉庫」です。
明治44年に2号倉庫が、
大正2年に1号倉庫が完成しています。
港町横浜のランドマークのひとつとして、
知名度では、
神奈川県立歴史博物館を数段凌ぐでしょう。
そして三つ目。
場所を東京に移します。
ただし、
今度は建物ではありません。
あまりにも有名なある「橋」が、
実は、妻木の作品なのです。
それは「日本橋」。
妻木は、
明治44年に竣工し、いまも残るこの橋の建造において、
いわば、
「総合デザインプロデューサー」
と、いった立場の仕事をしています。
程近いところに建つライバル・辰野金吾の
日本銀行本店とともに、
両者仲良く、
街の象徴的な風景をかたちづくっています。
以上、長きにわたってお届けした、
東京駅丸の内駅舎とそれにまつわるお話。
今回をフィナーレといたします。
辰野金吾。東京駅をつくった男は、ラスト・サムライのひとり その3
2012年02月02日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
お話は前回からの続きです。
「日銀、東京駅、国会議事堂の三つをつくりあげること」
辰野金吾はこの生涯の目標のうち、
すでに二つをその手にし終えました。
次はいよいよ、国会議事堂です。
しかし、
こちらはなかなかスムースには進みません。
官に育てられたあと、
民に下って(?)その星として輝いた辰野金吾、
彼は、明治の日本が成長してきたかたちを
そのまま一身に体現したような男でした。
しかし、一方、
彼がいわば野にあって大活躍している間、
官の方は官の方で、
地道に力をたくわえ続けていたのです。
国会議事堂は、
国家の象徴として、
出来上がればまさに近代日本の記念碑となるべき
重要な建物でした。
誰がこれをつくり上げるべきか?
どんな建物にするべきか・・・?
これに対し、
「国会議事堂は我々官の手でつくらせてもらう」
そう主張するのは、
大蔵省をその拠点とする官僚技術者達でした。
一方、
「いや、広く設計を募るべし。公開コンペにせよ!」
辰野とその教え子達は、そうはさせじとばかりに、
マスコミをつかい、
世論に訴え、
はげしく官僚側と主導権を争いました。
しかし・・・
長期にわたる議論空しく、
辰野達は負けてしまいます。
国会議事堂の設計は、大蔵省側の強力なリーダーだった
妻木頼黄(よりなか)らの手によって、
進められることとなったのでした。
ところがその後、
意外なことが起こります。
財政上の支障が出て計画の進行が遅々とする中、
なんと、妻木が没してしまうのです。
こうなると形成は一気に逆転。
建築界のキング・辰野の熱情を抑えられる者は、
もはや官民いずれにも見当たりません。
国会議事堂は、
辰野金吾主導によるコンペによって、
そのデザインが募られることとなったのでした。
ところで、なぜ辰野の主張は、
「オレにつくらせろ!」
ではなく、
「コンペ」だったのでしょうか。
無理もありません。
辰野はもはや建築界の重鎮、偉大な長老です。
「オレに、オレに・・・!」と、
駆け出しの若者のようなことを言うわけには
いきませんでした。
さらには、
もしも彼がそんなことを言い始めたら、
味方も皆シラけてしまい、ついてはこなかった筈・・・。
これらが、
理由として大きいでしょう。
そこで、
辰野は当初、こう考えていたようです。
「コンペとなれば、オレが審査員に選ばれることは必然。
同時に、もっとも発言力のある審査員は
オレということに。
そこで『審査員も作品を応募できる』ということに
してしまえば・・・しめしめ・・・」
さらにのちには、
こう軌道修正したといわれています。
「オレが応募できないのなら、
応募案の中から選ばれたものに、
オレが思い切り手を加えることが出来る仕組みに
してやろう。そうなれば事実上、
国会議事堂はオレの作品に・・・!」
むしろ惚れ惚れするほどの
ラスト・サムライのおそるべき執念といっていいでしょう。
しかし、
天は、このサムライが、
描いたすべての夢をつかみとることを
許しませんでした。
ほどなく、
辰野の思惑どおりに実施された国会議事堂設計コンペ。
そこで選ばれた作品に、
いよいよ手を加えようとしたその時、
彼は力尽きたのです。
病に侵されたその肉体は与えられた寿命を終え、
辰野金吾はついに、
永遠の旅路についたのでした。
享年六十四。
その後、国会議事堂の設計は、
コンペ案を下地にはしながらも、
実質上、
あの妻木頼黄のあとを継いだ、
官僚技術者らによってすすめられることとなりました。
その中心となった人物、
矢橋賢吉は、
かつて帝国大学で辰野の教えを受けた、
いわば弟子の一人でした。
・・・さて、以上で、
三週にわたって続いた辰野金吾のお話は終わりとします。
来週は「番外編」として、
もうひとり、
ある建築家とその作品についてのお話しをいたしましょう。